無明
ほんの僅か、夢を見ていた気がする。
守矢は板張りの床から身体を起こし、手のひらで目を覆った。
懐かしい夢ではあるが、今の守矢にとっては猛毒を飲まされたのに近しい。
ふう、とため息を落とす。軒を借りた寒々とした荒れ果てた社の空気が、少しずつ守矢の心を整えているような気がした。
今は心を休めることなどできない。それでも一時でも懐かしい砂糖菓子のような柔い夢に浸れるならば、それは幸せなのだろうか。
今の守矢は草枕、あちらこちらを転々と流浪する身である。幼い頃からそうであるが、今はどうしても許してはならないものがある、それを知ったのは十七の時だった。
守矢の幼少期は、けして恵まれた物ではなかった。しかし、寄る辺を無くした自分を受け入れてくれた師匠であり養父の慨世、義妹の雪や義弟の楓と過ごしたあの幸せすぎた日々は、今でも心の奥底にゆらゆらと沈んでいる。
守矢は自分が言葉が足らないことを知っている。しかし、それを理解してくれ、ともに育った二人には心を少しだけ許してしまっていたと今なら思う。
師からもう少し言葉にして伝えることだ、とは二人きりになった時に何度か言われていた。雪は守矢のことについては先回りの気遣いをしてくれていたし、楓も無邪気に慕ってくれた。ただ、守矢にはそれに返す言葉が見つからなかったのだ。
今となれば、もっと話しておくべきだった。そう強く思う。そういった自分のこの性格が疎ましく思うときもある。
楓が養父の慨世から譲られた刀を初めて血に染めさせたのは自分だ。そして、どうしたらいいのかわからないといった風の雪の横を通ったとき、雪の青ざめた白い頬に涙が一筋流れたのにも何も言葉をかけられなかった。
自分が守りたかったものはすべて手をすり抜けていく。今はもう、なにかを大切に思うことはできない。どうあっても失ってしまうのならば、もうこれ以上なにも要らないとさえ思う。
きっとそれを聞いたら雪も楓も自分を許容すると言ってくれるのは知っている。
それでももう、守矢は自分を許すことはできないのだろう。五年という時は長く、心が凍るのには十分な年月だった。
新月の夜だった。月も星もない天を見上げて守矢は蝋燭に火を灯してから愛刀、月の桂の鯉口を切った。
ゆらめく光をうけて冴え冴えとした刀身に、守矢の顔が写る。ああ、これではきっと、あの二人に会うことなどできない。自分の目はあの頃の自分ではもうない。ただひたすらに、昏い。昏い目がこちらを見つめている。
あの二人が知っている自分は、あの時死んだのだろう。
それならば、首尾よく仇討ちを果たしても、自分はどこに行けばいいのだろうか。
守矢は刀を静かに鞘に収めて、蝋燭を消した。
今は感傷に浸るときではない。そう心の中でつぶやいて、守矢は暗闇に紛れた。
守矢誕2025でした。なんか重くなってしまいましたが、一幕前の守矢をと。