あいぞめ




 もう半月もしたら、香織が京へ来る。いつもの宿だそうだ。もし私の任務が長引くようなら少し相手をしてやってくれ。あいつがこちらへ来る目的の半分はお前なんだからなと笑って、小次郎は慶一郎の肩に手を置いた。
 それが今生の別れとなるとはその時は知らなかった。だから適当にわかったと返してしまった。後悔が胸を締め付ける。亡き友の遺体を前にして彼は拳を握りしめた。
 手近な寺に頼んで湯灌を済ませた友の顔はいつもの寝顔に見える。実際は胸に大きな刀傷があるが、見えないように経帷子を着せかけてくれている。これから来る客には、それが救いになるだろうか。
「慶一郎殿――!」
 がたん、と障子が開く音がして女が入ってくる。涼やかな薄藍の着物がひらめいた。額に汗を滲ませて息を切らせたその様子は、痛ましいものだった。夜に浮かび上がるような白い肌は、その汗とは反対に白を通り越して蒼ざめていた。
「あっ、ああ……あ、兄上……あに、うえ……っ……こんなっ……」
 布団に寝かされた身体に取りすがって彼女は泣く。大粒の涙が頬を伝い、遺骸の頬に落ちて弾けた。
 ああ、似ているなと思った。男と女、体格や声の差こそあるが、小次郎と女――妹の香織は、驚くほどに面差しがよく似ていた。
「まだ屯所には知らせておりませぬが……任務の途中で斬られたようです」
  見つけたのは慶一郎だったのは僥倖だったのだろう。小次郎は紫鏡の誅伐任務、慶一郎は地獄門の調査。偶然に道が重なったのだろうか。誰も立ち寄らぬ荒びた廃寺で一人、うち捨てられた骸が友のものだと気づいたとき、慶一郎は屯所に知らせることはしなかった。まずは京に来ているはずの香織に。それしか考えられなかったのだ。
 これをと慶一郎は香織を抱き起こして渡す。
「けい、いちろ……どの……」
「小次郎殿はこれを握りしめていたそうです」
「……わたしが……持たせた、お守り……」
 呆然とした彼女に着ていた服、隊服や鉢巻きも手の中に押しつける様に渡す。これは、彼女が持つべきもので、ただの友である自分が持つべきものでは、ない。
 最後に小次郎の愛刀百舌の鯉口を切り、遺体の胸の上に置いてから慶一郎は席を立った。
「私は少し出ています。別れを済ませられましたら……屯所に伝令を出します」
 香織は腕の中の遺品を眺めつつ、幽鬼のように頷いた。


「兄上、兄上は私を幸せにしたい、真田の家を建て直したいと浪士隊にゆかれた……」
 香織は先程慶一郎から鉢巻きをたぐりながら呟く。これは私が作ったものでしたね、と指先で針跡をなぞった。今はもう少し上手く出来る。だから新しいものを持ってきたのに。
「私は、何もなくても爺様と婆様、兄上と慶一郎殿がいれば、満足だったのに……」
  兄上は私を一人にするのですか、と香織は血の跡の残る着物を抱いた。
  慶一郎もこのまま新撰組にいるのだろう。京へ来たのも、半分は彼にも会いたかったから。家族同然で育ったといえども、所詮は他人。もはや生きる土地も世界も違う。兄を口実に会うことも出来なくなってしまうのではないかとふと思ってしまう自分の浅ましさに香織は自嘲した。
 有り体に言うなら、香織は慶一郎を慕っていた。この年になっても嫁がずにいた理由はそれだった。
 幸せだった日々はもう遠く、二度と手に入らない。
 何故。どうして。涙とともに胸に浮かび上がるごぼり、とした黒い泥のような感情は、やっとひとつの捌け口を見いだした。
「……許せない……こんな事を、許してたまるものか……」
 ぽつりと呟いた彼女は、おもむろに身につけた着物の襟に手をかけた。


 もうよいだろうかと頃合いを見て、慶一郎は閉ざされた障子の前に立った。仲の良かった兄妹、それこそ香織は慶一郎の寄せる思いにも気づかぬほど兄を慕っていた。だから別れの時間は長く取ってやりたいが、そうもいかない。
「香織殿、入りますぞ」
 返事はなかった。それほど憔悴しているのか。無理もないと思いつつ慶一郎はすらりと音を立てて障子を開けた。
「……こ、じろうどの……」
 思わず呻く。血に汚れた着物、白と黒のだんだら羽織、髪を結いなおし鉢巻きを着けた香織が百舌を握りしめて立っている。それはまるで死人が生き返ったようで、鷲塚も思わず一歩、下がってしまった。
「……慶一郎殿……私は兄上を殺したものが許せぬ……仇を討ちたい」
 恨みに染まった声を絞り出すように香織は告げた。鷲塚はばかな、と小さく叫んで、香織の肩を思わず掴んだ。
「なりませぬ! 貴方は女……新撰組に身の置き所などないのですよ」
「隠せばよい! 私は兄に顔がよく似ている! 現に、今も慶一郎殿は私を兄上だと思ったのだろう」
「このようなか細き身で、何が出来るというのですか!? 貴方をむざむざ死地へ送るなど、私は小次郎殿に合わす顔がない……!」
 肩に置いた手に力を込めて叫ぶ。ぱあん、と香織はそれを払った。
「兄上や慶一郎殿とともに磨いた剣の腕は、曇ってはおらぬ! 故郷で一人待つ身とて、研鑽を欠かしたことはござらぬ!」
「それでも、人を斬ったことはないのでしょう。貴方にそんな事をして欲しくはない!」
 人を斬る、という言葉に香織は顔をはっと上げた。しかしすぐにそれは皮肉な笑いに転じた。
「仇を討つとは、人を斬ることに他ならぬだろう。慶一郎殿、私は覚悟している。兄上や慶一郎殿が身を置く世界、不条理に人を殺めることもあるだろう。目的の為なら、私はそれも厭わぬ」
 香織の目は真っ直ぐに慶一郎を見つめている。こうなった香織は一切の意見を容れない。慶一郎は溜息をついて、条件がありますと返した。


 小次郎の野辺送りは寂しいものであった。ただ友と、妹が添って葬られた。墓には名もなく、遺骸の他には香織が故郷から持ってきた鉢巻きとお守りがおさめられた。
「僧には因果を含めて、ここに葬られた者の風体と素性は隠すようにと言いおきました」
「そうか。済まなかった」
  隣を歩く香織は、小次郎と同じようにただ無造作に髪を高く結わえて流し、小袖に袴姿をしていた。鷲塚が屯所から見繕ってきた、小次郎の着物だ。端から見たなら男に見えるのだろうか。胸を晒で潰し、所作も男のようにしている。もともと小次郎も女のように整った顔をしていたし、香織も男とも女ともつかない整った顔をしている。所詮男と女の境は身体とその身についた所作なのだろうか。だからこそのこの状況なのだがと慶一郎は嘆息した。
「女将さん、失礼いたします」
 慶一郎は一件の宿の軒をくぐりつつ声を掛けた。あら鷲塚さん、お久しゅうと続いて声がかかる。
「いつもの部屋を」
「へえ、空いとりますさかい、すぐに用意しますわ。お連れさんもどすか? 困ったわぁ、部屋の空きは一つしか……あらぁ、綺麗なお侍さんねぇ、以前連れてこられた事もあるような気ぃも……」
「部屋は一つでよい。世話になります」
 長い口上を聞く気もないといった風情で香織は一礼した。
「こんなところに常宿を持っていたのですか」
「屯所に戻れぬ事もあります。それに薩摩長州に与していない宿を捜すのは面倒で、長逗留となるとどうしてもここになってしまいまして」
 部屋にあがって向かい合って座りながら話す。二間続きの見晴らしのよい部屋だった。
「それで、私の何を諮ると申すのか」
 慶一郎は道中買ってきた紙を広げた。
「今から私が、零番隊が今まで済してきた事と小次郎殿が関わった隊士、副長局長各々の隊の組長について人物風体、知る限りの全てを書きつけます。半月以内に覚えて下さい」
 組長が不在で誤魔化せるのもそれくらいでしょうと鷲塚は告げる。わかった、と香織は表情を硬くして頷いた。
「剣の腕も拝見したい。同じく半月以内に私を納得させて頂きたい」
「……わかり申した」
「剣を振るうなら近くに人のあまりおらぬ社があります。あとでそちらへ案内いたしましょう」
 それから、と鷲塚は書きつけながらいう。
「小次郎殿の所作をまねて頂きたい。これは貴方の方が私よりお分かりでしょうが」
 隠密のまねごとをしていると、そういう小さいところから綻びが見えるのですよと慶一郎は付け足した。
 香織は暫し考えたあと、こう訊ねた。
「壬生に行ってからのことは知らぬし、慶一郎殿と一緒の時については私は知らぬ。教えてほしい。私に言いづらいことでもなんでも、教えてくれぬだろうか」
 ああ、と慶一郎は香織の言わんとするところを察して頷く。慶一郎も小次郎も男、女の香織に立ち入れない領分は当然のことながらあった。
「心配せずとも、小次郎殿はいつも貴方の知っている通りの方でした」
 ただ酒を飲むと、普段よりは砕けておりましたかな、というと、そうかと軽い返事が返ってくる。本当なら、香織と小次郎の思い出話をしたい――しかし、目の前の女はそれを望んでいない。それを慶一郎は少しだけ寂しく思った。


 抜き身の刀を振って香織は汗を拭った。真剣はこんなに重い。木刀もそんなに軽くはなかったが、ずしり、という重さがある。命の重さか、と百舌の刃文をみやる。
 これで兄は、どれだけの命を刈り取ったのか。そして、自分はどれだけの命をこれから刈り取るのか。
 暗い考えを振り切るように片手三段突きからまた構えに戻る。ずしり、と下腹に重い痛みが走った。
「……」
 男であろうとしているのに、身体は女であろうとする。滑稽だと苦々しい笑いが香織の口の端にあがった。
「小次郎殿、そろそろ休憩を取ったらいかがか」
「……わかった」
 水と握り飯を持って鷲塚がやってくる。しかし、動きすぎたせいか食欲などない。水を少し飲んで、香織は鷲塚に告げた。
「隊内の人間関係は覚えただろう。あとは拙者が其方を納得させれば良いはずだったな? 立ち会って貰えるか」
  実際、香織は昼も夜もなく慶一郎の書き付けを見て、五日ほどでほぼ正確に覚えている。これには慶一郎も驚いた。そして、それだけ香織の恨みが深いことにも いいようのない感情を抱えていた。所作も、既に香織はつとめてではなく自然に小次郎のように動いている。死んだのは香織という女で、小次郎はまだ生きているかのようだ。
「貴方は疲れてはいないのですか。後日でも――」
「いや、今日が良い」
 自分の気持ちが揺れないうちにと心の奥底で香織は考えていた。それを見抜いてか、見ぬいてはいないのか、慶一郎はわかり申したと告げ、一呼吸置いて刀を携えて立ち上がる。香織もまた、そうした。
  すらり、とお互い剣を抜いて構える。香織の剣は所詮兄と慶一郎が教えた我流、小次郎とは違うが、それはなんとか言い訳は立つだろう。香織が様子見の突きを放つと、慶一郎はすっと間合いを詰めて刀を薙いだ。後ろに飛びずさりつつ、香織ははぁっという気合いを込めて突きを打つ。また空いた間合い、今度は慶一郎が、いつでも突きを放てるように構える。
 すう、と香織は息を吸って、相対して構える。香織の膂力では長時間の打ち合いには耐えられない。それは双方が知っていた。
「――慶一郎殿、お覚悟願おう」
 これで自分の心を諮ってほしいというように、香織は剣を構えて一文字に走り抜けた。
 ちり、と慶一郎の髪が飛ぶ。反応しようと思えば出来ただろう。それでも慶一郎はそれをしなかった。これは、避けてはならない一撃だった。
「……お心、しかと受け取った。小次郎殿。私はもう何も言いませぬ」
 そうか、と香織は刀を納めた。覚悟の重さ。それは女でも男でも変わらない……そう思わせる一撃に、慶一郎も刀を鞘に収めた。
 納得してしまった。ならば、自分は香織に出来るだけのことをしよう――慶一郎はそう思った。


「慶一郎殿」
 香織が夜半に、襖越しに声を掛けた。丁度寝支度をしていた慶一郎はなんでしょうかと返す。
「頼みがあるのだ。すこし、こちらの部屋にきてくれないか」
 どきりとした。いくら今は小次郎と思おうと昼に納得したとしても、今は夜。
 しかしここで行かないのもおかしいだろう。それは香織を傷つけることになりはしないか、そう思いつつ、慶一郎は襖を開けた
「……何用でしょう……か」
 布団も敷いていない畳の上。立ち上がった白い小袖姿の香織の足元に、艶やかな黒髪が散っている。
「ああ、済まぬ、もう寝支度をしていたか。その、兄上と同じ位に髪を切ろうとしていたのだが……上手くいかないものだな。手伝ってくれないか?」
「座って下さい」
 つとめて平静を装って慶一郎は香織を座らせた。確かに小次郎の方が髪が短いが、そこまで気にするほどではなかったのに。やり場のない怒りのようなものが、慶一郎の心を焼いた。
 慶一郎とて人の髪を切るのは不慣れである。鋏を手にとって逡巡していると、香織の声がかかる。
「上手くいかない……ではないな。私は、私を本当に消してしまうのが怖かったのかもしれない」
「香織殿……」
 ふふ、と笑って香織は自分の感情を飲み込んだ。
「ああ、でも慶一郎殿なら鋏を持つのも得意か。いつも盆栽の手入れをしていたな」
「木と髪は違いすぎます。香織殿――」
 後ろから女の身体を抱きしめる。抵抗されるかと思ったが、びくりと一瞬震えただけで、香織は鷲塚の腕の中に納まっていた。
「今なら……まだ、まだ戻れます」
「いいや、慶一郎殿……拙者は真田小次郎になる……これから私の生きる道はただ一つ」
 慶一郎の腕に柔らかく手を添えて、香織は身を離す。
「早く切ってしまって欲しい。そして、香織を弔ってやってくれないか」
 わかった、とだけの慶一郎からの短い返事。それでいい。真田香織は死ぬのだ。
 それが、愛しい男の手によるものなら良い。
 香織は心の中で呟いて、鋏の音に耳を澄ましていた。






 

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