過日




宿に戻り、一息ついたところで雪は愛用の琵琶を取り出し、爪弾いた。ここは義父、慨世の知り合いの家だ。幼い頃、修行の旅をしていた時分に二度ほど寄せてもらったことがある。
 あの頃は義父も、守矢も楓もいた。その面影を追うと寂しくなるばかりである。
 いくら隠そうと思っていても一日中髪や目の色を、いや顔立ち自体を隠していることは出来ない。だから義父の知り合いの雪を知っている場所に宿を請い、その近辺に守矢や楓が立ち寄った形跡がないかを調べるのが雪の旅の倣いだった。
 琵琶はそんな一時も気を抜けない雪のたまの娯楽である。五年の間の雪の旅の中での小さなやすらぎと言えば、問えば答えてくれる楽器であった。
 守矢のことを思えば心がざわめく、楓のことを考えれば気が急く。そんな中で師匠から教わった音色は、雪の思惑を裏切らず雪の思うとおりの声を返してくれていた。
「――琵琶はなべて弾く人少なく、まして女などは、たまたままねぶを聞くもいとめでたく、心にくく、奥ゆかしくこそはべれ、か」
 心の赴くままにひとときかき鳴らし、雪はふと、呟いて寂しく微笑んだ。


 月のさえざえと寒い頃の話である。修行の旅の途中、師の慨世がこんな事を言った。
「ここには暫くいる予定だから、剣の他にも、なにか好きなことをするといい。大事なことだ。守矢はなにかあるか」
 師はいつも、まず最初に兄の守矢に尋ねる。守矢は「書」と短く答えてから、「文字が整っていて見苦しいことはないでしょう」と付け足す。守矢らしいと慨世は苦笑している間、雪は次は自分の番だとわくわくしながら師の問いを待っていた。答えはもう決めていたからだ。
「雪は、何かしたいことはあるか」
「私、お師匠さまの時々弾いてる楽器を弾いてみたい」
 琵琶という楽器だという。玄妙で、時に激しさも持つ楽器に、雪は興味を持っていた。
「琵琶か……。三味線では駄目か?」
 快諾してくれると思ったのにと雪は肩透かしを食った思いだった。そんな表情を察してか、慨世は取りなすように説明した。
「琵琶は子供のお前には重い。それにあまり女の弾くものではなくてな……」
「そうなんですか……?」
「――『琵琶はなべて弾く人少なく、まして女などは、たまたままねぶを聞くもいとめでたく、心にくく、奥ゆかしくこそはべれ』とも言います。……雪の好きにさせてやって下さい」
「――無名草子か、守矢、お前そんなものも読んでいたのか」
 前世話になった家にありましたので、暇つぶしにと淡々と守矢は返す。こうまで言われては仕方ないなと嘆息して、慨世は雪に琵琶を教えてくれたのだった。


  楓はその時なんと言ったのだろう、と雪は整った眉根を寄せた。本を読んでいた気もするし、ただぼうっと山の上から下に広がる港町を眺めていた気もする。あの船は大漁で帰ってくるよ、等と当てごとをしていた気もうっすらしているから、そうだったのかもしれない。まだ子供だった自分は、その時口数の少ない兄が 自分をかばって助け船を出してくれたのが嬉しくて、それしか覚えていないのだ。
 琵琶も習ったのは基礎の基礎だけ、あとは自己流だ。師匠は、結局それしか教えられなかった。
 この琵琶も師匠の遺品である。旅立つときにいた場所からは最低限のものしか持って出られなかったが、これは置いていけなかった。当時の雪には大荷物だったが、どうしても諦めきれなかったから。何か一つでも遺品が欲しかった。それだけで持ってきてしまった。
  今となっては、姿形ですらこの国の人間と違う自分が更に女の枠外に出ることを良しとしなかった師匠の気持ちも解るし、それでも雪のやりたいことを尊重してくれた守矢の気持ちも解る。女が琵琶を弾くのは珍しく、それは真似事だけでもすばらしいと守矢はいってくれたのだ。それは、ひいては雪の容姿が外つ国のものであっても介さない守矢の素直な気持ちなのだろうと思う。
 いつか、あの人にこの音を聞いて欲しい。雪は名残惜しげに琵琶をひと撫でして、今は隣にいない人を思った。



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